この場所で息をする方法

自己救済の伝播

自分に嘘をついたまま自殺するところだったよ

突然だが、「死にたい」は共鳴する。もちろん、同調して増幅してしまえば集団自殺のような悲劇が起こるわけであるが、ときどき仕組まれたような和音を奏でることもある。この文章はわたしが死に損ねた話で、だけど確かに奇跡のような、いくらかの救いの話でもある。

 

とある夏の夜、わたしは公園で「死にたい」を契機に親友になった人と電話で話していた。わたしには、外をぶらぶら散歩しながら長電話をする悪癖がある。

彼は死にたくても屈託無く笑う人で、会話の切り返しの冴えた教養人である。わたしが死にたい理由——わたしは傲慢にも、完全に内的な理由だけで死にたいのだけれど——を話すと、彼は拍子抜けしたようだった。

「そこまで論理的に説明できるのは、衝撃だわ。でもその話で自分に嘘ついてるとこ、確実にあるやん。欺瞞に逃げてまで、生きてんのか」

 

その通りすぎて、返す言葉もなかった。わたしはこの生きづらい世の中に、自己欺瞞ひとつで対処してきた。自分に小さな嘘を重ねて、なんとか正当化して保っている。でもそれを見抜いて責めたてるもうひとりのわたしもいる。わたしは自分にねちねちと責められるのがいやで、嬉々として論理の抜け穴に飛び込む。それでもすぐにもうひとりのわたしに見つかって、責められ、罰される。日々はその繰り返しで、わたしは自分を信じることができなくなってしまっていた。いつでも自分を疑い、監視し、徹底的に否定するという癖がついていた。気づけば自分の尊厳を自分で奪ってしまっていた。それは不可逆な傷のように思えてならなかった。わたしがわたし自身を罰した際にできた、不可逆な心の傷。わたしはもう、心身ともに衰弱していた。衰弱していることすら誤魔化すように、こういう死にたい同士のずっしり甘い共感に溺れたり、深夜にアイスクリームを食べたりして、なんとか生活を続けていた。

 

それでも、どうしても死にたかった。

2018年7月28日、わたしは風がごうごう吹き荒れる駅のホームに、死が大口を開けているのを見た。むき出しの線路はわたしをそちらの世界へ手招きした。水たまりの向こう側の、鏡の向こう側の、川の向こう側の世界へ。雨は地響きのように鳴り響き、いっそのこと小気味いい。

 

どうしても死にたかった。

その日は数時間前まで、友達の家で夜通し女子会をしていた。その帰り道、わたしは泣きながらスマートフォンに遺書を書いた。朝まで恋や未来や、かつての教室の青さについて語り明かしていたのに。台風の中、傘をさしてそれでも全員濡れてしまって、駅で笑いながら別れた後だったのに。そんなに楽しい日を過ごしてもなお、心の中では自己処罰が休まず続いていたのだ。わたしは絶望と情けなさとで、ちぎれそうになっていた。

 

もう死のう。そう決めたらいっそ安らかな気分になった。遺書を書き終え、乗り換え駅のホームで、次の電車が滑り込んでくるのをわくわくしながら待った。回転寿司屋で、目当てのネタが回ってくるのを見つめる小学生のように、線路の上流へ目を凝らす。もうここに飛び込んで、終わらせてしまおう。内的で傲慢な消耗戦を、もう終わらせてしまおう。

 

しかし人間というのは無力なもので、ほんとうに思考力が落ちていると、電車が駅に向かって失速するというあたりまえの事実さえ忘れてしまうらしい。わたしはのろのろとホームに流れこむ車両を眺め、ああ死ねないんだな、と悟る。それを繰り返しているうちに、最寄り駅についてしまった。

 

最寄駅で恋人が待っていた。それでも死にたくて、どうしようもない自分に絶望した。バケツをひっくり返したような雨が降っていた。彼はおそらく沈んでいるわたしを元気づけるために、豪雨の中を傘もささずにはしゃいで走り回った。それでも、どうしても死にたかった。絶望していて、情けなかった。せめてさっき死ねなくてよかったと、この人を雨降りの駅前に取り残して死ななくてよかったと思った。それでも、死にたかった。

 

死にたいから這い上がった今では、あのときの過剰に内罰的だった状態をうまく説明することができない。とにかくあの日は、女子会仲間のいたわりも、恋人の無邪気さも、ほんとうの意味では届かないくらい厚い膜の中に閉じこもっていたのだと思う。やさしさや愛情すら透過しない膜の中に。そしてだからこそ、彼らに感謝できない自分には価値がなく、やはり死ぬべきだと決めつけた。死にたいの色眼鏡をかけてものごとを眺めていて、全てが死ぬ理由になって同じところを循環する始末になっていたのだ。

 

せめて、死んだように深く眠りたかった。家に帰ってシャワーを浴びて、それから懇々と眠った。布団の隙間で溶けて消えたいと願うように、頑なに縮こまって。

すると、示唆的で不思議な夢を見たのである。

 

鈴虫の声。わたしは裸足だった。裸足で、夜の闇にしっとりと濡れた草を踏みしめていた。目の前には青黒い山が、そしてトタンの山小屋が見える。わたしは真っ暗で足元の悪い山道をどんどん登り、おんぼろの山小屋にずんずん入り込む。そこにはひどく不衛生な洗面台があって、わたしはそこで歯を磨く。鏡の中のやつれた自分を見つめながら。その間、恋人や例の「死にたい親友」とLINEやTwitterでしきりに連絡を取っている。

歯を磨き終えると、いそいで山を下る。蜘蛛の巣だらけの不気味な山小屋に長くは居たくないから。山の麓はみんながいて、焚き火を囲んでいる。でもわたしはなぜか参加することができなくて、またすぐ歯を磨きに行かなくてはならない。急かされるように山を登る。不衛生な山小屋で、ボロボロの歯ブラシで、歯を磨く。どうやら恋人もここに歯を磨きに来ているらしい。だからせめて会いたいのに、連絡を取り合ってもなぜかすれ違ってしまって落ち合えない。ツイッターでは親友が「それは欺瞞であるという反論は、反論として成り立っていないので、『それは欺瞞である』という一文こそが欺瞞である」のような、小難しいことを呟いている。相変わらず、欺瞞とか言ってるよ。でも彼にも、どうしても会うことができない。一人ぼっちで、怯えながら歯を磨く。そしてまた山を下って、束の間の間火をぼうっと眺めて、また義務のように山を登る。急いでいる。苦しくて、義務を負っている。壊れかけの山小屋に、歯を磨きに......。

 

そこで目が覚めた。ぞっとした。先ほど見ていた映像が夢だと気付くと真っ先に、これは警告だ、とはっきりと思った。あまりにも「死にたい」に深く潜ったわたしへの、意識の底からの危険信号だと思った。

 

ところで突然ですが、あなたは夢占いを信じますか? わたしの立場としては、なんといいますか、好んでいる。ネットにゴロゴロしている「○○が夢に出て来たら、吉夢! 道でお金を拾うかも!」といったものは眉唾ものだと思うけれど、フロイトの夢判断は面白く読んだ。わたしはとりあえず、つい先ほどの夢を解釈してみることにした。

 

暗いくてさみしいところ、そこに一人で行かなくてはならない。みんなの囲む焚火の輪には入ることができない。恋人とあんなに盛んに連絡を取っていたのに、すれ違って、決して会うことはない。不衛生でさみしい洗面台。おそらく一人暮らし用の、小さくて汚い洗面所......。そっか、会えないんだ、死んだらもう。

 

まったく人間というのは独善的なもので、思考力が落ちていると、死んだら大切な人に会えないということすら忘れてしまうらしい。それから、親友がTwitterで呟いていたはずだ、欺瞞が、どうたらこうたら......。

 

悪寒が走った。今ならまだ間に合う。今ならまだ、自分に嘘をつくのをやめることができる。このやさしさや愛情や、ともすると死にたい同士の甘い共感すら届かない、自己欺瞞の厚い膜を破ることができるはずだ。生きてさえいれば。正直に、逃げないでいさえすれば。白紙からのスタートになってしまうけれど。

 

この話は、普段から現実をそのまま受け止めて生きることのできるしなやかな人にとっては、とことん呆れた話なのだろう。呆れすぎて、気分を害する人もいるかもしれない。だけどこのわたしのように、地に足をつけられない人が、めいっぱい空気を吸い込まない人が世の中にはいる。

 

わたしはわたしのやり方で、とことん正直になってみることにした。その日のうちに、わたしが頭が上がらない人物全員に連絡を取り、「死にたかったんですが生きます」の旨を伝えた。Twitterで病気のことを呟いてみた。友人に助けを求めてみた。救いを求めることの責任を取ることにした。部屋を片付け、見たことのなかった古典映画に手をつけ、過食症の体験をもとにした小説を、本格的に書き始めた。

 

もちろん、2018年8月9日、今日もどうしても死にたくなってアトリエで泣いた。だけど泣くだけ泣いて、あとはアトリエに人がいないのをいいことに、服を脱いで絵の具まみれになって自画像と向き合った。どうしようもなく不器用で、まだ当たり前のように独善的なわたしだけれど、あなたの世界の片隅を、ほんのすこしだけ貸していて。そこで正直に、もう少しの間生きていたいから。