この場所で息をする方法

自己救済の伝播

ふでばこ・コンプレックス

恥の多い生涯を——なんて引用から書き始めたら、ちょっと感傷的すぎるだろうか。だけど誰だって羞恥心を持ち合わせているものだし、わたしのそれはおそらく人よりも強いのだと思う。これは恥の意識が、My Bloody Valentine のライブを見に行ったら消し飛んでしまった、というかなり短絡的な覚え書きである。

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わたしは恥の原体験を、「ふでばこ・コンプレックス」と呼んでいる。わたしは小学生の頃、クラスの女子のあいだで流行っていたふでばこが欲しかった。それはそれはすてきなふでばこだった。三角柱のかたちをしていて、デニム素で。ポケットがたくさんついていて、大容量で。おまけにかわいいキャラクターが描かれた、ラメ入りでつやつやの、塩化ビニルでコーティングされていた。わたしはあれがとっても欲しかった。流行に敏感な女子でいたかったのだ。その資格が欲しかった。親になにかをねだるのは苦手だったけれど、無理してねだって買ってもらった。流行に乗るためのライセンスとしてのふでばこを。

 

わたしはそれを、どきどきしながら学校へ持って行った。すると詮索好きで噂好きで、すなわち最も流行に敏感なAちゃんがそれを目ざとく見つけ、こう言い放った。

「うかちゃん、そのふでばこにしてからるんるんしてるよねえ」

わたしは凍りついた。おそらくは、赤くなって俯いた。Aちゃんに意地悪する気がなかったのはわかっていた。でもだからこそ、そんな何気ないひとことでダメージを食らうわたしの自意識が許せなくて、恥じた。小学生の頃の思い出なんてもうほとんど意識に上らないが、この記憶だけはときどきフラッシュバックする。たとえば大学で、周りの目を気にし過ぎる自分を恥じたときなんかに。それでわたしは便宜上、この記憶を「ふでばこ・コンプレックス」と名付けた。ラベリングして心の金庫の奥へ奥へと沈めた。なるべく見なくて済むように。

 

だけど先日、ひょんなことからこのコンプレックスから解放されてしまったのだ。しかも心の女児の救世主は、なんとマイブラの伝説的な鬼ディレクター、Kevin Shieldsだったのである。それはもう鮮やかな救済だったので、シェアしたくてたまらなくなった次第である。

 

8月15日、豊洲。中学生の頃から好きだった、My Bloody Valentine が来日する。わたしはそのとき、どん底にいた。恥の巨大な台風の、分厚い雲に隠れてしまっていた。私生活にも学校生活にもつまずいて、完全に自己を見失っていた。いままで周囲にどう思われるかばかり気にして、インスタントに誰かの正義に迎合し、模範解答を求めて生きてきた。それが身に染みるような出来事におしつぶされてしまっていたのだ。美大生のくせに、柔軟さのかけらもない、と自分を叱責してばかりいた。こんなことでは真に「クリエイティブ」になれるはずなんてない。21歳にもなって、やっぱり周囲の目に——それも架空のものに——振り回されて、自尊心がすっからかんになっていた。そういう自分を激しく恥じた。過去の文脈を恥じるばかりで、精神の部屋にうずくまって動けない。なのにその部屋の壁には、架空の他人の目が無数に張り付いている。誰にも会いたくないとまで本気で思いつめた。振り返ればあの状態は、かなり危険だったと思う。そこをあっさり救われてしまったのだ。寡作なノイズ・ギターオタクのKevin Shieldsに。

 

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真夏の夜の豊洲は美しかった。わたしは三日前に大喧嘩をした恋人と、ぎくしゃくしながらライブ会場までの海辺を歩いた。あたたかい海風。わたしにとって海は原風景であり、とくべつだ。そういえば上京して2年経つが、東京湾を見るのははじめてだった。その時点でこわばったこころはいくらか解けていたけれど、でもそのあとに待ち受ける、爆音による精神治療には遠く及ばない。会場に着くと、噂通り全員に耳栓が配られた。そこからはもう、夢を見ているみたいだった——何層にも重なり合うギターサウンド、その合間に微かにきこえる甘い歌声。爆音なのに上品なのだ。すぐにめろめろになった。

 

そして、おもしろいことに気づいた。Kevinがたびたび演奏の手を止めて、はじめからやり直すのだ。彼は躊躇わず、臆面もなく、自分が違うと思ったらやり直す。彼が演奏を止めるたびに、会場はやさしい笑いに包まれる。オールスタンディングの会場を見渡して、もうひとつ気づいた。観客はみんなおもいおもいに、静かにただ揺れている。どうやらマイブラのファンは自己完結的であるらしい。そこには規範や同調圧力なんてなくて、ただそれぞれの精神の部屋の中で癒されている。Kevinのつくる音に。その場を体験して、わたしははじめて理解したのだ。Kevinはただ彼の納得する音をつくっている。でもわたしは救われた。Kevinはわたしを、オーディエンスを救おうなんてこれっぽっちも思っていない。でもわたしは現に救われたのだ。誰になんと言われようと、救われた。そっか、相手にどうおもわれるかなんて、どうでもいいのかあ。最後に用意されたホロコーストで、わたしは見知らぬひとたちに紛れて泣きじゃくった。それが心地よくてたまらなかった。

 

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ああ、もう恥に隠れて生きるのはやめよう。そう固く誓った。誓いといっても、雨の日に入るプールのようにばかげてあかるい誓いだ。わたしもこの人生を、本当に好きなものに打ち込む人生にしよう。すてきなすてきなふでばこを、いちから自分でつくるような人生にしちゃおう。

 

そんなわけで、わたしはあんなに渇望していた主体性を、人生の参加チケットを、あっさり手に入れてしまった。

 

いまはとりあえずめちゃくちゃにしてしまった生活を立て直している。それも、完全に自分好みに。大量の本を売って、服を捨て、壊れていたメガネを作り直した。部屋中を動線に沿って使いやすいようにがらっと模様替えをして、毎朝瞑想とストレッチをしている。たまに落ち込むこともあるけれど、たいていのことはKevin Shieldsに誓ってどうでもいいのだ。ふでばこを透明なものにしたので、中が透けて見えて整理がしやすい。動きやすい体になってきた。やさしい部屋ができてきた。さあ、ここからどこに行こう。これからどんなふでばこをつくろう。

 

 

自分に嘘をついたまま自殺するところだったよ

突然だが、「死にたい」は共鳴する。もちろん、同調して増幅してしまえば集団自殺のような悲劇が起こるわけであるが、ときどき仕組まれたような和音を奏でることもある。この文章はわたしが死に損ねた話で、だけど確かに奇跡のような、いくらかの救いの話でもある。

 

とある夏の夜、わたしは公園で「死にたい」を契機に親友になった人と電話で話していた。わたしには、外をぶらぶら散歩しながら長電話をする悪癖がある。

彼は死にたくても屈託無く笑う人で、会話の切り返しの冴えた教養人である。わたしが死にたい理由——わたしは傲慢にも、完全に内的な理由だけで死にたいのだけれど——を話すと、彼は拍子抜けしたようだった。

「そこまで論理的に説明できるのは、衝撃だわ。でもその話で自分に嘘ついてるとこ、確実にあるやん。欺瞞に逃げてまで、生きてんのか」

 

その通りすぎて、返す言葉もなかった。わたしはこの生きづらい世の中に、自己欺瞞ひとつで対処してきた。自分に小さな嘘を重ねて、なんとか正当化して保っている。でもそれを見抜いて責めたてるもうひとりのわたしもいる。わたしは自分にねちねちと責められるのがいやで、嬉々として論理の抜け穴に飛び込む。それでもすぐにもうひとりのわたしに見つかって、責められ、罰される。日々はその繰り返しで、わたしは自分を信じることができなくなってしまっていた。いつでも自分を疑い、監視し、徹底的に否定するという癖がついていた。気づけば自分の尊厳を自分で奪ってしまっていた。それは不可逆な傷のように思えてならなかった。わたしがわたし自身を罰した際にできた、不可逆な心の傷。わたしはもう、心身ともに衰弱していた。衰弱していることすら誤魔化すように、こういう死にたい同士のずっしり甘い共感に溺れたり、深夜にアイスクリームを食べたりして、なんとか生活を続けていた。

 

それでも、どうしても死にたかった。

2018年7月28日、わたしは風がごうごう吹き荒れる駅のホームに、死が大口を開けているのを見た。むき出しの線路はわたしをそちらの世界へ手招きした。水たまりの向こう側の、鏡の向こう側の、川の向こう側の世界へ。雨は地響きのように鳴り響き、いっそのこと小気味いい。

 

どうしても死にたかった。

その日は数時間前まで、友達の家で夜通し女子会をしていた。その帰り道、わたしは泣きながらスマートフォンに遺書を書いた。朝まで恋や未来や、かつての教室の青さについて語り明かしていたのに。台風の中、傘をさしてそれでも全員濡れてしまって、駅で笑いながら別れた後だったのに。そんなに楽しい日を過ごしてもなお、心の中では自己処罰が休まず続いていたのだ。わたしは絶望と情けなさとで、ちぎれそうになっていた。

 

もう死のう。そう決めたらいっそ安らかな気分になった。遺書を書き終え、乗り換え駅のホームで、次の電車が滑り込んでくるのをわくわくしながら待った。回転寿司屋で、目当てのネタが回ってくるのを見つめる小学生のように、線路の上流へ目を凝らす。もうここに飛び込んで、終わらせてしまおう。内的で傲慢な消耗戦を、もう終わらせてしまおう。

 

しかし人間というのは無力なもので、ほんとうに思考力が落ちていると、電車が駅に向かって失速するというあたりまえの事実さえ忘れてしまうらしい。わたしはのろのろとホームに流れこむ車両を眺め、ああ死ねないんだな、と悟る。それを繰り返しているうちに、最寄り駅についてしまった。

 

最寄駅で恋人が待っていた。それでも死にたくて、どうしようもない自分に絶望した。バケツをひっくり返したような雨が降っていた。彼はおそらく沈んでいるわたしを元気づけるために、豪雨の中を傘もささずにはしゃいで走り回った。それでも、どうしても死にたかった。絶望していて、情けなかった。せめてさっき死ねなくてよかったと、この人を雨降りの駅前に取り残して死ななくてよかったと思った。それでも、死にたかった。

 

死にたいから這い上がった今では、あのときの過剰に内罰的だった状態をうまく説明することができない。とにかくあの日は、女子会仲間のいたわりも、恋人の無邪気さも、ほんとうの意味では届かないくらい厚い膜の中に閉じこもっていたのだと思う。やさしさや愛情すら透過しない膜の中に。そしてだからこそ、彼らに感謝できない自分には価値がなく、やはり死ぬべきだと決めつけた。死にたいの色眼鏡をかけてものごとを眺めていて、全てが死ぬ理由になって同じところを循環する始末になっていたのだ。

 

せめて、死んだように深く眠りたかった。家に帰ってシャワーを浴びて、それから懇々と眠った。布団の隙間で溶けて消えたいと願うように、頑なに縮こまって。

すると、示唆的で不思議な夢を見たのである。

 

鈴虫の声。わたしは裸足だった。裸足で、夜の闇にしっとりと濡れた草を踏みしめていた。目の前には青黒い山が、そしてトタンの山小屋が見える。わたしは真っ暗で足元の悪い山道をどんどん登り、おんぼろの山小屋にずんずん入り込む。そこにはひどく不衛生な洗面台があって、わたしはそこで歯を磨く。鏡の中のやつれた自分を見つめながら。その間、恋人や例の「死にたい親友」とLINEやTwitterでしきりに連絡を取っている。

歯を磨き終えると、いそいで山を下る。蜘蛛の巣だらけの不気味な山小屋に長くは居たくないから。山の麓はみんながいて、焚き火を囲んでいる。でもわたしはなぜか参加することができなくて、またすぐ歯を磨きに行かなくてはならない。急かされるように山を登る。不衛生な山小屋で、ボロボロの歯ブラシで、歯を磨く。どうやら恋人もここに歯を磨きに来ているらしい。だからせめて会いたいのに、連絡を取り合ってもなぜかすれ違ってしまって落ち合えない。ツイッターでは親友が「それは欺瞞であるという反論は、反論として成り立っていないので、『それは欺瞞である』という一文こそが欺瞞である」のような、小難しいことを呟いている。相変わらず、欺瞞とか言ってるよ。でも彼にも、どうしても会うことができない。一人ぼっちで、怯えながら歯を磨く。そしてまた山を下って、束の間の間火をぼうっと眺めて、また義務のように山を登る。急いでいる。苦しくて、義務を負っている。壊れかけの山小屋に、歯を磨きに......。

 

そこで目が覚めた。ぞっとした。先ほど見ていた映像が夢だと気付くと真っ先に、これは警告だ、とはっきりと思った。あまりにも「死にたい」に深く潜ったわたしへの、意識の底からの危険信号だと思った。

 

ところで突然ですが、あなたは夢占いを信じますか? わたしの立場としては、なんといいますか、好んでいる。ネットにゴロゴロしている「○○が夢に出て来たら、吉夢! 道でお金を拾うかも!」といったものは眉唾ものだと思うけれど、フロイトの夢判断は面白く読んだ。わたしはとりあえず、つい先ほどの夢を解釈してみることにした。

 

暗いくてさみしいところ、そこに一人で行かなくてはならない。みんなの囲む焚火の輪には入ることができない。恋人とあんなに盛んに連絡を取っていたのに、すれ違って、決して会うことはない。不衛生でさみしい洗面台。おそらく一人暮らし用の、小さくて汚い洗面所......。そっか、会えないんだ、死んだらもう。

 

まったく人間というのは独善的なもので、思考力が落ちていると、死んだら大切な人に会えないということすら忘れてしまうらしい。それから、親友がTwitterで呟いていたはずだ、欺瞞が、どうたらこうたら......。

 

悪寒が走った。今ならまだ間に合う。今ならまだ、自分に嘘をつくのをやめることができる。このやさしさや愛情や、ともすると死にたい同士の甘い共感すら届かない、自己欺瞞の厚い膜を破ることができるはずだ。生きてさえいれば。正直に、逃げないでいさえすれば。白紙からのスタートになってしまうけれど。

 

この話は、普段から現実をそのまま受け止めて生きることのできるしなやかな人にとっては、とことん呆れた話なのだろう。呆れすぎて、気分を害する人もいるかもしれない。だけどこのわたしのように、地に足をつけられない人が、めいっぱい空気を吸い込まない人が世の中にはいる。

 

わたしはわたしのやり方で、とことん正直になってみることにした。その日のうちに、わたしが頭が上がらない人物全員に連絡を取り、「死にたかったんですが生きます」の旨を伝えた。Twitterで病気のことを呟いてみた。友人に助けを求めてみた。救いを求めることの責任を取ることにした。部屋を片付け、見たことのなかった古典映画に手をつけ、過食症の体験をもとにした小説を、本格的に書き始めた。

 

もちろん、2018年8月9日、今日もどうしても死にたくなってアトリエで泣いた。だけど泣くだけ泣いて、あとはアトリエに人がいないのをいいことに、服を脱いで絵の具まみれになって自画像と向き合った。どうしようもなく不器用で、まだ当たり前のように独善的なわたしだけれど、あなたの世界の片隅を、ほんのすこしだけ貸していて。そこで正直に、もう少しの間生きていたいから。

人生の参加チケット

——人生の参加チケットをもらってないような感じ。

いきなりだがわたしはときどき、何をしたらいいのかわからなくなることがある。スーッと潮が引いてゆくように、わたしがこの場所から出ていってしまうような感覚。残されたわたしの身体が、途方に暮れているような空っぽの感覚。そういうときは空洞を埋めたくなるので、たいてい仲のいい女とパジャマパーティを開く。わたしたちはとびきり甘い缶チューハイを床に直置きして座り込む。友人宅のフローリングは、どっしりツヤツヤしていて海底のようだ。友人は自身の報われない片思いについて語り、わたしはつめたい生ハムをむしゃむしゃ食べながら耳を傾ける。換気扇が「うーん」と低く唸り、話題はいつのまにか恋の軌道を大きく外れている。彼女は、「人生の参加チケット」をもらいそびれたという。

——高校とか中学の頃から、彼氏彼女って言ってた人たちは、チケットをもらってるって思ってた。そいつらはあっちの世界に入る権利があって、わたしにはない、みたいな。だからわたしは恋愛する権利がないって、諦めてたのにさ。

——うーん、わかる。

彼女は、子供の頃から手放せないのだと言うサメのぬいぐるみをいじっている。彼女がぬいぐるみの両脇についた、おててのようなふくらみを動かすたび、そこから思い出の胞子が溢れる。目には見えないけれど、彼女の20年分の想いが、たしかに空気中を舞う。わたしはそれをまともに吸い込んでしまう。まともに吸い込んで、まともにあてられて、わたしは自分が次第に彼女の一部になってゆくのを感じる。そして共感という名の大穴に転落してしまう。

このタイプの人間を、世間ではHSP(Highly Sensitive Person)と呼ぶらしい。HSPで検索してヒットした記事を読んでみると「このタイプの人は流されやすいです。非常に繊細です。でもねそれって才能なんですよ。才能を生かしましょう。素晴らしい人生を切り開くのだ、才能があるからね。ただし非常に繊細で、人に流されやすいわけだが」というようなことが書いてある(インターネットに転がる記事を読んでいると、壊れたレコードを聴かされているような気分になるのはわたしだけ?) 。要するに、これといった対処法は見つからない。壊れたレコードからは正解なんて流れてこないからね。だからわたしはせめて、他人と同化することにはしゃがないようにしている(正解ってなんだろう)なるべく無害な「木のウロ」でいようとするわけだ。正解ってなんだろう?

海底に、恋に恋する女と、無害な「木のウロ」と、サメのぬいぐるみとが黙って沈んでいる。彼女はもう30分も前から、ずっとサメのおててをいじっている。わたしはひんやりした生ハムをむしゃむしゃ頬張っている。沈黙はたっぷりと言葉の可能性を含んでいる。語ることは不可逆で、人生の参加チケットを持っていないわたしたちは自信がないので、タバコの煙で会話する。ふたり分の「語られなかった言葉」たちは換気扇を通って、23区外のとろとろとした夜に落っこちてゆく。

わたしは夜が好きだ。なんといっても清潔だから。どんなに贅沢な使いかたをしても、夜は時間通りにスーッと舞台の裾にはけてゆく。例えば、そう、そうだ、群青色のカラーセロファンが1000枚くらい重なっている状況を想像していただけますか? あ、いいえ、状況の方はいいですから光景だけを。それを一枚ずつ丁寧に取り去るように、規則正しく夜は明ける。夜の持つたしかな時間感は、地球上で一番信頼できる。その点、朝と言ったらなんなのだ。1000枚もあったカラーセロファンの、最後の一枚が取り払われたとき、それがまさに夜明けなのだが。群青色のもやを隔てて会話していたあなたとわたしが、ぶざまに鼻を突き合わせてしまったときの、白け具合ったらない。「朝が来るのが怖い」と、「人生が続くのが怖いのだ」と漏らすと、男の人や女の人に笑われる。臆病者だ、ひねくれ者だと。でも彼らはそんなわたしを気に入ってくれていて、始発で別れてまたいつかの終電で会う。

わたしは夜が好きだ。ピンク色が好きだ。浴槽に浸かって読む江國香織作品が好きだ。ファーザー・コンプレックスで、髪を赤く染めている。料理はいまいちだけど裁縫ならちょっと自信がある。宮城県の小さな漁村に生まれて、いまは東京の小さなアパートに住んでいる。都内をでたらめに歩き回るのが好きだけど、どこにいてもなんだか閉じ込められているような気がする。あるいは次の一瞬にだれかに捕まって、どこかに閉じ込められるような気がする(臆病者で、ひねくれ者で、かなりビョーキだ)。でもまあ誰かにとっての「木のウロ」になることはできる。トルーマン・カポーティを崇拝している。泣き虫で、迷信深くて、たびたび悪夢にうなされる。


わたしは宮城県のちいさな漁村で生まれた。自宅から水平線が見えるようなのびやかな土地だった。名産は牡蠣で、こぢんまりした海水浴場があった。それから、みんながいた。遊びに行くとイカリングをおまけしてくれるおばちゃんもいたし、チャボを10匹以上飼っている気さくなおじさんもいた。父もいた。父は幼いわたしを毎日のように海に連れて行ってくれた。あれはヤドカリがたくさん棲む浜、これは桜貝の浜。必ずしも美しくはなかったけれど、海はそこかしこに、当たり前のようにあった。わたしは海を不動のものだと思っていた。けれど、ほどなくして東日本大震災に遭った。それから、みんないなくなった。わたしも地元からいなくなって、というか、そもそも地元はなくなった。地盤沈下の影響で海が動いたのだ。助かった人はみなタンポポの綿毛のように散り、わたしは母と二人暮らしをすることになった。

あたらしい部屋は真っ白な部屋だった。被災直後は家具がなくていやに静かだった。多感な中学生だったわたしはその部屋で泣いてばかりいた。好きな男の子にいちばん星の写メを送るなどの健気なアピールをしていたのに、大きな嘘をつかれていたと知って、白い部屋に帰って泣いた。宮城の田舎では美大受験を認められないどころかひどい偏見があって、白い部屋でひとりで泣いた。故郷の海を理想化して感傷に浸り、白い部屋で泣いた。さみしいときもひとり部屋にこもって泣いていた。いつしか部屋はつめたく神聖な懺悔室のようなものになった。つまり、「木のウロのための木のウロ」の役割を果たしていたわけだ。だから白い部屋は紛れもない味方だった。しかしあくまで泣くための場所であって、安心して眠る場所ではなかった。懺悔室で泣くたびに、人生の参加チケットがすり減ってゆく。やがてわたしは「ここにいてはいけないんだ」と悟り、大学進学とともに上京した。


しかし今でもわたしの心は、肉体をぬけだしてあの部屋に帰ってゆく。不思議なものだ。わたしは今では愛するアパートの——白い——一室に恋人や友人をいつでも招くことができる。スパイスや甘い香水やお菓子の匂いで部屋を満たし、何もかも床に散らかして遊べばさみしくなんてないはずだ。友人宅——壁が白くて、でもやさしい部屋——にお邪魔してパジャマパーティをすることだってできる。でもしばしばスーッと潮が引くように、わたしはわたし自身から抜け出して、身体を幸福なアパートに置き去りにしたまま、魂だけで想像上の白い懺悔室にうずくまる。そこは四方八方を白い板に囲まれた何もない部屋で、ただあらゆる可能性を内包している。語られなかった言葉で満ちていて、パラレルワールドと繋がっている。光を取り込む大きな窓があり、鍵の開いたドアがある。いつでも動き出すことができる、何処へだってゆくことができる。それでもわたしは夜が来るまではまんじりとも動けない。だって、1000枚もの群青色のカラーセロファンの影に、隠れていたいから。あなたと鼻先を付き合わせるのがなんだか恥ずかしいから。——そう、人生の参加チケットを持っていないから。

(いやむしろ、この部屋は失くしたはずの、参加チケットの半券でできているのかもしれない。一枚の紙を折って正方形を折ることは容易い。昔から折り紙は得意だったし。たとえば札幌の白い時計台に着いているのにどの建物か気づいていないかのような、眼鏡をかけていながら眼鏡を探しているような、そういうことが起こっているのかもしれない。そうじゃないかもしれないけど、)とにかくわたしはこういうパラドックスの中に逃げ込んで、つまりは白い懺悔室の中に逃げ込んで、

今日も23区外のとろとろした夜の訪れを待っている。浴槽で江國香織作品を読む。そろそろパパに電話をしようかな、パパだって永遠に生きてるわけじゃないから。人魚姫にはなれないけどせめて、髪を赤く染め直そう。安心できる場所を求めてでたらめに歩き回るけれど、どこに行っても結局「木のウロ」になってしまう。だからまた白い部屋に逃げ込むのだろう。わたしは白い部屋に閉じ込められているような気がする。閉じ込められる予感がする。そんなことを考えているあいだにも群青色のセロファンは一枚づつめくられて、うんざりするほど真っ白な朝の光が、だんだんこの部屋に向かって来る。一点の曇りもない白が、音を立てて近づいて来る。